思い出した新潟地震 (昭和39年)

古い日記から思い出したことをブログに書きました。

  あっ思い出した新潟地震(昭和39年)

新潟地震の通報が入った。同じサークルの親友の実家が新潟市内にあった。心配しても電話が通じなかったようだった。その親友は細面の知的な美人であった。彼女の感覚は何か醒めていた。特別サークル活動に熱心なわけでも、リーダー的な存在でもないのに男子学生の間では話題になっていたと思う。

 二年先輩の副部長が言った。「俺の親父は毎日だからよー、状況をつかめると思うから電話で聞いてやるよ」と言った。

 結果「死者も20人以上出ていて、家の損壊も大分ひどいようだけれど君の家辺りは大丈夫のようだ」というような会話が交わされていた。

 それから4,5年後の彼女の結婚式に出席した。婿殿は

某電力会社の社員だった。

 それから1年後別の友人の結婚式があった。彼女も出席したので「赤ちゃんは彼が看ているの」の返ってきた返事は「会社を休んでくれなくて、社宅の人たちに【2時間づつみてください】ってミルクとオムツをつけて回覧して貰うの」 私には目から鱗だった。

 彼女の婿殿の収入を推測するに我が家とは大分格差があるにちがいないと実感した。

 年子の娘を私大(次女は一人住まい)に通わせ、胃癌を患う夫のホスピス(定期健診での初期発見で完治したが)のつもりで家を建てる計画をたてている」と話した。下の娘さんの家賃は私の息子の倍額であった。思わず私は「高いわね、その家賃」と言ったら彼女曰く「治安を買ったのさ」と答えた。お金で安心を買えるのだと変に納得した。

 それから何年かして上野で一緒に美術展を見て食事をした。

 家のローンの話になって「退職金で完済しちゃった」と言った時に「ヘッド・ハンティング?」と聞いた。「彼自身ビックリしたんだけど重役になっちゃったのさ」との答えが返ってきた。

 福一事故以来、彼女とは何となく疎遠になった。

「ボロは纏えど心は錦♪ マフィアから足抜けしたら」等と年賀状に書いてしまった自分の無神経さを反省している毎日である。

 

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コメント: 1
  • #1

    yama3go (月曜日, 31 10月 2016 13:31)

    新潟地震1964年(昭和39年)6月16日13時1分41秒(JST)、新潟県の粟島南方沖40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震である。地震の規模はM7.5(Mw7.6)。
    日本の歴史上、最大級の石油コンビナート災害をもたらした地震で、143基の石油タンクが延焼し、その火災は12日間続いた。
    ちなみに柏崎 1号機営業運転開始は1985年9月