「熊取6人衆」最後の一人、今中哲二助教の最後の講演

「熊取6人衆」最後の一人、今中哲二・京大原子炉実験所助教が定年を迎え最後の講演。

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2016年1月28日京都大学原子炉実験所・第50回学術講演会

「原子力と付き合って47年」 今中哲二     書下ろし スライド  

 

第50回学術講演会 報文集から  原子力と付き合って47年

                   70-72ページに掲載されています。

 

東京新聞    2016年2月11日 朝刊

講演する京大原子炉実験所の今中哲二助教=10日、大阪府熊取町の同実験所で

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 大阪府熊取(くまとり)町にある京都大原子炉実験所で反原発の立場を取ってきた研究者集団「熊取六人衆」の、最年少で最後の現職、今中哲二助教(65)が三月に定年退職する。十日には、六人衆が一九八〇年から開く市民向け講座が百十二回で幕を閉じた。

 最終回のテーマは「福島原発事故から五年」。今中さんは「地震がある国にこれだけの原発を造った。その間違いを認めることもなく、なぜまた動かすのか」と、再稼働を急ぐ国や電力会社に疑問を投げ掛けた。 今中さんは五〇年に広島市で生まれた。祖母は原爆の犠牲となり、母は被爆者だった。

 原発を疑問視するようになったのは大学院生の時。新潟県の柏崎刈羽原発の建設予定地で、住民から「国は『事故は起きない』という原発を、なぜ都会でなく田舎に造るのか」という声を聞いたことがきっかけだった。七九年の米スリーマイル島の原発事故では、六人衆の一人、瀬尾健さんと放射能放出量を評価する仕事に取り組んだ。八六年のチェルノブイリ原発事故後でも現地に入った。

 十日の講座には市民ら百五十人が詰め掛け、六人衆も九四年に亡くなった瀬尾さんを除く四人が見守った。

 今中さんは「チェルノブイリは人ごとだったが、福島では同じ日本語で気持ちが通じ合えるおじいさんや子どもらが被災した。日本が放射能汚染に五十年、百年と向かい合う時代になった」と語り「福島にはかかわっていくし、私がまだ役に立つことはあると思う」との思いを明かした。

  (相坂穣)